金属バットメモ

お漫才師「金属バット」についてのメモ

笑い飯哲夫とジャルジャルに共通するもの、そしてAマッソ加納と金属バット、天才松本人志

(ガチのメモ。

書き終えた今、この文メモにしてもいくらなんでも不親切すぎる。二項対立をわかりやすくしておきます。下の本文は根本的に以下の二つの対立の話をずっとしています。

  • 「ハード」=ネタの設定=大喜利の問題を考える能力=企画=フィールドを一から作り出す能力=原案=客観=(バンドとかでいう)音作り=メロディー?=ないない=突飛さ=プロット=なにかを伝えるときの言葉=感心させる
  • 「ソフト」=ネタ中の具体的なボケ=大喜利の答えを考える能力=演者=与えられたフィールドで暴れる能力=演出=感情=(バンドとかでいう)曲づくり=コード進行?=あるある=リアリティー=文体=なにかを伝えるときの表情=共感させる

最後の方何個か本文にも登場してねえな 特にメロディー&コード進行は余計わかりにくくしてそう。そんなに音楽詳しくないけどあってる? よね? メロディーと比較して直接的に感情呼び起こすのってコード進行でしょ? いやメロディーもあるとは思うけど。わかりにくいね。音作り⇔曲作りの方がまだ全然近い対比なんでそっちを想像してください。

でもなるべくたくさんの具体例の対から、共通する役割を感じ取ってください。)

(追 どっか整合性合わん気がする)

 

 

(以下本文。)

 

笑い飯はネタ作りを両者が担当していると言われているが、最初のネタの設定は実質的にほとんど哲夫が考えている。

笑い飯はネタ中のボケ方が普遍的かつめちゃくちゃ面白いが、設定はかなり飛ばしている。(ボケ方はその中にも金属バット友保の直系祖先と言える西田の視覚的なドンピシャの大喜利能力が一貫してあったりするため、敷居は低く笑いやすい(後述。))

これは哲夫がネタのフォーマット(「ソフト(ウェア)」の対義語としての「ハード(ウェア)」的な?)を考える能力に長けているからであり、これはジャルジャルにも共通する。

プロもこの感覚は持っているようで、スピードワゴン小沢はAbema TVの月曜The NIGHTにて2018年M-1最終決戦の3組をあげて「ジャルジャルはゲーム、和牛は映画とか小説、霜降り明星は漫画」と表現し、また中川家剛は同様にその三組のことを自身のラジオ内で「ジャルジャルYouTubeを観てる感覚、和牛はお芝居観てる感じ、唯一霜降り明星は漫才って感じ」と形容した。(この場合の剛の発言は、ジャルジャルはデカい企画(=「ハード」)ありきのスタイル、和牛はひとつのストーリーを大きく使ってデカい爆発(ex:2017M-1ウェディングプランナー「お父さんお母さん」、2018M-1ゾンビ「俺ここまでなってて抜かされることあんの」)を作り出すスタイル、霜降り明星は自分の思い付いた自信あるボケをその節々の脈絡にあてはめて披露するスタイル(霜降り明星が現在両者でネタを考えていても、未だに「粗品のピンのフリップネタ」(脈絡がなく、かつひとつひとつのボケのクオリティがとても高い。また、この粗品のネタの根源にある発想の柔軟さがスピードワゴン小沢に「漫画」と形容させる要素になっている)の応用と形容されるひとつの要因)だという意味だと思われる)

ジャルジャルM-1アナザーストーリーでも扱われていたように中川家礼二からの評点に長年苦しんだ。これに対して「礼二は古典的な漫才の型に固執している」と見る向きもあったようだが、具体的には礼二は漫才の端々に出てくるソフト的な(根元的には演じる人間のキャラクターと不可分な)魅力を重視しているからだと思われる。(つまりは大きくくくると礼二の採点の重きは「古典的な漫才の魅力」(=人間同士の掛け合いから感じられる距離感や思考の表現、つまり上手さと形容される技術そのもの)が一部には含まれてはいるんだけど、そんな雑な表現だと誤謬が含まれ過ぎる)礼二は「クラシックな型(「ハード」)にあってるから○、見たことない型だから×」なんて単純な採点してんじゃなくて、「型はなんでもいいけど中身のボケとかやりとり(「ソフト」)をちゃんと充実させてくれよ」、という基準を持ってんじゃないかということだ。

しかし、2015年M-1最終決戦で唯一ジャルジャルに投票した笑い飯哲夫、そして2017年M-1で唯一ピンポンパンゲームを最高評価した松本人志の両名は、ハードを単体で評価する基準を持っている。もちろんそれは強靭なハードを持ったネタを彼ら自身が開発した人物だからに他ならない。ジャルジャル笑い飯、そしてダウンタウン。彼らのネタの設定レベルでの発想力はみな特筆すべきものだ。(そしてこういう芸人がミュージシャンズミュージシャン的に「芸人から評価の高い芸人」だったりするんだと思う。)しかし、哲夫にはソフト的な発想において希代の才能を持った西田という相方がいたし、松本人志はたったひとりでハードにもソフトにも自由自在に対応できる完全無欠の本物の天才だったために、礼二的なソフト重視の視点を持つ人々にも低評価を受けることはなかった。

しかし、ジャルジャルにはソフトを充実させる人間がいなかった。ジャルジャルが時に「しつこい」と形容されるのはソフト重視の人にとって、たった一つハードをずっと見せられても、展開の妙に欠けると感じるからだろう。きっと、ジャルジャルは展開の妙など要らないと思っている。というかこれは恐らくだが、「そんなことは時間かければできる」と思っているのではないだろうか(それは彼らが「俺らにかかればソフト作りなんて余裕!」って思ってるって意味じゃないよ。むしろやっぱ得意じゃないだろうし、それは本人らも承知していると思う。でも、ハード作りに比べたらあとは仕上げるだけ、あるいは煮詰めるだけ、と思っていると思う。ネタの根本的な方向性はハードで決まるはずだ、って思ってると思う。あるいはハードに余計な不純物を与えないように、強く見えすぎないソフトを選んでいるのかもしれない)。彼らが「ネタのタネ」と称してYouTubeにありえないペースで投稿しているコント動画を見てもそう感じる。彼らのネタの魅力は「タネ」の時点で既に花開いている。それはそれは慧眼の人たちにとってはもう満開に咲きまくっている。だけどそのタネの面白さはソフト的な魅力ばかりが気になる人には届きにくく、ジャルジャルは勝負どころではそんな人らにもネタがわかりやすいように、ネタ中の(あくまで彼らの思うようにだけど)ソフト的な魅力を増幅させようと努力していく。だけど、ジャルジャルのネタが「ネタのタネ(ハードのみ)」から「ネタ(ハードにソフトを入れたもの)」に進化するときに、魅力が倍以上に増幅するなんてことはないように思う。それはジャルジャルのハードづくりの能力が、彼ら自身のソフトづくりの能力を遥かに凌駕して高いからだ。(ソフトづくりの能力だって卑下されるほど低くはない。平場の後藤に見られるように。平場はきっと芸人同士のソフト的な能力のぶつかり合いなんだと思う。)超高性能ハードにまあまあくらいの高性能ソフトを入れたところで、その完成品の魅力の大部分はハード単体の時点で完成しているということだ。

剛の先述の言葉を今一度。ジャルジャルを評した「YouTubeみたい」という言葉は、「企画そのものが面白い」という風な意味合いだと思う。それを礼二は「演者が見えてこない。企画だけの漫才は演者の自然なキャラクターがにじみ出る漫才には敵わない」ととらえているのだと思う。それは一つの基準として全くもって筋が通っている。映画や演劇の人たちが自分達の創作の世界にどうにかして重み(リアリティー、見ている人が現実らしく感じる感覚)を持たせようとして四苦八苦してやっきになっているのと全く同じように、先述通りクラシックな漫才の根本的な魅力だった舞台上の人間からにじみ出るリアリティーのあるキャラクターそのものというのは、とても普遍的で重要な技術なのだ。(だからリアリティーは映画でも舞台でも漫画でもアニメでもなんでも大事にされる。リアリティーを蔑ろにしたら「でもこれ作り話なんでしょ」と一掃されてしまうかもしれないのだ。リアリティーは説得力とか緊張感とか感情移入とか共感とかいろんな言い方をされて、常にあらゆる創作の世界で最も大事な要素の一つとして必要とされている)礼二は最悪きつい極論では「ジャルジャルはネタさえつくったらあと他人でも演じられるだろ」みたいに思ってるかもしれない。そしてそのような評が具体的にケンコバからは「無機質」、ブラマヨからは「人間味を一切感じない」、サンドウィッチマン冨澤からは「マシーンみたい」などの表現で指摘されている。(一方でこれは恐らくジャルジャルが美学のように持っているであろう「ハードの完成度をピュアに見てもらうために、不純なものを入れたくない」という指針に一致すると思う。彼らのネタはそれほどあまりに無機質に普遍的で美しくできている。)

そしてまたスピードワゴン小沢のジャルジャル評をまた今一度。「ジャルジャルはゲーム」という言葉が意味するのは、ジャルジャルのネタは発想力(=ゲームタイトル自体の出来)にその魅力の大部分がつまっており、その設定の世界の中でどんな具体的なボケやツッコミをするか(=ゲームのプレイスタイル)はもはや開発者のジャルジャルも本来消費者にすぎない視聴者と同じように、一人のプレイヤーとして楽しめる分にはあんまり違いがない、ということだと思う。ピンポンパンゲームなんてまさにゲームの形をとって、視聴者とジャルジャルが全く同じように楽しめるネタだったわけだ。2015年の雷坊主の添い寝節とか呼ばれてるあのネタだって、視聴者が具体的に会話の節々でふざけるアイデアを考えれば、今すぐあのネタのフォーマットを借りて似た形のネタを作ることが出来る。これは実はすごいことだ。だけど、ソフトの妙を見たい人にはやっぱり伝わらなかったりする。(2015のネタの妙は放っておかれたボケをツッコむタイミングがほとんど幾何的な美しさをもって意図的にバラかされていたことで、それが(普通の作り方ではないけれど)ネタにスケールを出していた。これで「展開がある」という感想を少し持たれやすかったのかもしれない。でも本当はこれだけがネタのハードだ。この漫才での一つ一つのボケは放置されてから回収されるまで放置される距離感にしか真の意味はなく、ボケを埋めている言葉など単にその場で代入された変数にすぎない。それを際立たせるため、彼らは意図的に同レベルのボケを並列的に用意する。ボケのレベルの揃えかたといったらなく、そこからは「具体的なボケが変に目立ったりしてネタの型を邪魔されたくない」くらいの意思さえ感じる。きっと彼らはネタの型の邪魔になるなら、「ジャルジャルにしかできないボケ」みたいなもの(これはほとんどの漫才師、特にソフト重視の漫才師が血眼になって探し続けているものだ)が見つかったとしても、型を優先して捨てるのではないだろうか。それ以前に彼らにしかできないボケなどあるようには見えないほどの無機質さを彼らは持っているが。彼らの漫才はその美しさとあまりの普遍性から、金属製の芸術品のような印象をウケる。普遍性だけを押し出したギリギリ芸術じゃないかもしれない「雷坊主の添い寝節」、あの漫才はペルシャ絨毯とかフラクタルとかと同じ価値の美しさを持っているということだ。ネタの構成の魅力が言語を介さない構成そのもの配置の美しさにまで昇華されているのだ。ゴレンジャイの根底の発想と一緒だ。)そしてそんなソフト重視の人はプロの世界よりも、むしろお笑いをそこまで真剣に見ないいわゆる普通の視聴者に多いかもしれない。そして「お笑い」を名乗る限り、ゴールは綺麗なものを作ることではなく笑わせることなので、たとえジャルジャルのように半分芸術に足を突っ込んでいるようなネタを作ろうと、客にウケなければその場では少なくとも低評価を下されることに文句は言えない。たとえ本当に客が悪くても、芸人はウケないことを客のせいにしてはいけないのだ。これは他のあらゆるメディアと違って、お笑いだけが視聴者に呼び起こす感情を「笑い」というたった一つの感情に絞っているメディアだからだ。笑いの他に感動が残ったりするのは大丈夫だが、たとえば「お笑いやりまーす」と言って客に笑いなく感動だけが残ったりしてはいけないのだ。たとえそれが見る客が悪いことが原因だったとしても。だから、ほとんど大勢の人に笑いの入り口となっているソフト的なネタの部分を重視する礼二の採点は、あくまでアーティストやデザイナーなどではない、芸人としての視点に徹したネタの評価としては筋が通っているのだ。(だからひょっとするとジャルジャルはこのまま日の目を見ないかも知れなかったところを、彼ら自身が若年層に直結するメディア、まさに偶然剛が表したようにYouTubeにネタのタネを投稿し始めたことで、お笑いを「創作」として捉えてなお真剣に見れる層に露出できるようになったのは大きな恩恵があると思う。彼らの才能が正しく評価されますように。)

 

で、そんなジャルジャルのネタを評価している松本人志と哲夫だったが、(まあ結局これが言いたいんだけど)彼らはAマッソのことをきっと評価してくれると思う。

というか哲夫はすでに笑けずりでAマッソを高く評価した。金属バットが似てると言われる芸人のAマッソ編で書いた、Aマッソ加納が笑い飯から学んだ「設定の発想を飛ばす」というポリシーが、笑い飯の中でもまさに哲夫的な部分から来ているということだと思う。

だからその記事で「Aマッソと金属バットは似ているところがあり、かつどちらも笑い飯の傘下にあるが、それら二つの事象は独立であり、両者が笑い飯に似ているから互いに似通っているわけではない」と書いたのは、具体的には「Aマッソ加納は笑い飯哲夫的なネタの設定を書く。金属バット友保は笑い飯西田的なボケをする。ところでAマッソ加納の考える殺伐とした語彙と金属バットの考えるアングラな語彙には似通った雰囲気がある」になると思う。ひょっとしたら金属バットから加納が影響受けてんのかもしんないけど。

 

(以上本文)

 

 

上の文から勘違いしてほしくないのは、「ハードが得意な芸人はソフトが不得手であり、ソフトが得意な芸人はハードが不得手」みたいななわけではないということです。片方が突出して得意だと、もう片方がそこまで不得手でなくとも相対的にかすんで見えたりします。なので、以下にこの記事に登場した芸人の得手・不得手とかをまとめます。同一人物でも必要があれば個人とコンビを使い分けています。まあまあ微妙なとこもあります。(スピードワゴン、和牛、ケンコバブラマヨあたり)

 

 

加納とかはハードの中にハードを入れ込んだみたいなネタを書くよね。ジャルジャルは一つのハード一本で見せるからそっちの方が職人気質に見えるかなと思う。加納はネタの飛んだ発想にさらに飛んだ発想をくっつけるため、ともするととっちらかった印象になり、文脈に慣れない人や想像力のついていかない人からは評価されないことがある。

また、「演技が下手」ってくくられる人はコントと比べると漫才ではまだ演技がうまいとされることもあると思う。「素が出てること、本気でネタを言ったり考えたりしているように見えること」が漫才が上手いことなんだと思う。金属バット小林とかはコントではおちゃらけてるように見えるかもしれないけど、漫才なら「わざわざおちゃらけてる人」にも見える。漫才にはコントと違ってハナっから創作という建前がないため。

 

追記:思い出した。すごい大事なことがあったんだった。

そんな感じで礼二筆頭に一定の割合から「作り話や想像の域を出ない」みたいなものを根っことした低評価を受けていたジャルジャルだが、後藤が「国名分けっこの出題やツッコミのタイミングは決まっておらず、客の様子を見て決めている」と発言している。これはすごいことだと思う。同様に去年のM-1でもピンポンパンゲームは本当にその場で実行されていたゲームであると明かされている。(それどころか、「ネタのタネ」ですら、設定以外のほとんどはアドリブだという。)

これはジャルジャルの二人の演技のわざとらしさから来るネタの嘘っぽさのせいでわからなくなっていたが、二人の披露したネタの核心がドキュメンタリーだったことを意味する。演出家たちが苦心して求め続けたリアリティーを始めからジャルジャルのネタは持っていたのだ。だけど彼らの演技に邪魔されてそれは伝わらなかった。本人らが口を開かなければ、誰一人それをわかった人はいなかったままなのではないだろうか。(お笑いを見慣れていない人の中には二人のコント的な演技のせいでジャルジャルが形式的にはしゃべくり漫才であることにすら気づかない人もいるのではないか。)切ない話だ。ジャルジャルは彼らの型を崩さないまま、礼二をはじめとする人々に理解されようと努力していた。だけど彼らは本当は最初から、その不足しているとされているもののタネを持っていたのだ。