金属バットメモ

お漫才師「金属バット」についてのメモ

金属バットが似てると言われる芸人、笑い飯編

にてるって言われてる芸人てざっくり

こんなんでしょ

またあったら追加したろ

追記:あったわ

 

笑い飯

これが一番聞かれる気がする。金属バットと笑い飯を似てると感じさせる最大のポイントは、タイプやサイズの違うボケが平気で隣接するところでしょう。

たとえば、両者の漫才にはネタ中のキャラクターから片方だけが唐突に脱出して現実世界の人間になったり、バカバカしく荒い発想のボケのすぐ隣に新鮮で鋭いボケがさらっと配置されていたりします。

 

(追記:これ2本目じゃんまちがえたわ。でも見つからんしほっとこ。)

たとえば笑い飯M-1に初登場した2002年1回戦のこのネタの中で、ふたりが社会科見学の引率の先生に扮し、交互にメガホンを持ってしゃべるくだりがあります。(????)その冒頭で哲夫がメガホンを持ったジェスチャーをしますが、すぐには話し出さずに「ウーッ」などと奇声を発し、首をかしげます。すると西田がさりげなく「メガホンの押すボタンを間違えている」と指摘し、哲夫はなるほどと言った感じでメガホンを持ち直す仕草をし、本題に入ります。

このくだりの前に大きく振られているのは引率の先生からの注意の内容そのものであって、それを本編としたらメガホンを持つところは先生が喋っているという想像を具体的に想像させるための演出(??他にちゃんとした用語ありそう)です。ですが、実際にはその演出の段階に、その後に続く大ボケよりも鋭く新鮮なあるあるボケがさらりと放り込まれています。このとき、西田が落ち着いた感じでつっこむこと、つまりまるで引率の先生の隣にいる別の先生のような雰囲気でいることが大事です。それまでまるで親の仇のようにボケあっていた二人が、急にこのシーンでは息を合わせてリアルなコントに入るわけです。でもこれはあくまで本題に関係ないボケだ、ということで本題よりも面白いくだりにもかかわらずさらりとボケてツッコんで終わりなわけです。

 

また、笑い飯のウルトラ傑作2003年のネタの土を掘りあうパートでの西田の一ボケ目の冒頭「業者のおっさんとこ飛ばしたろ」も、役割が一瞬で入り交じる例です。西田はもう発掘のコントに入っているのにもかかわらず、先ほどの哲夫のコントの冒頭「掘らなしゃあないで」というセリフを、コント内の「業者のおっさん」としてではなく、現実に舞台に立つ「西田幸治」としてめんどくさくなってとばしたことを堂々と発言してしまうのです。

このとき西田は「飛ばしたろ」、つまり通常では哲夫の1ターン目を踏襲したフリを自分も行わなければならないということを自覚しています。コント中のキャラクターになり始めておきながら、自分達の漫才の構成をメタ的に理解してしまってるわけです。

 

金属バットが大阪チャンネルで披露した傑作「趣味(トランペットダーツ)」のネタです。これはネタ全体も笑い飯のものを踏襲しているのですが、様々な細かいところで「台本感」が消える工夫がしてあります。(そのことでこのネタについていつか一個の文章を書きたいと思っています。)

このネタの2:09ごろ、友保「うんこ!」小林「え?どしたん?行きたい?」友保「ちゃうちゃうちゃう(照)」の部分。これは笑い飯のメガホンのくだりとおなじく、このネタの大きな本筋に関係ないくだりです。このネタでは全体を通して一貫したストーリーは「おかしな趣味を言い合う」ことであり、それ以外は寄り道です。そしてそれは友保がフルート生け花というフレーズを言った時点で我々に本筋なのだと認識されます。

なので、このうんこは、ボケ・ツッコミの役割で構成された本筋のストーリーとは関係なく、友保が「屁の音だけで笑うやつはうんこってだけで笑うだろう」と考えたことで発生した、おちょくる・おちょくられるの役割で構成されるくだりなのです。それまでのわかりやすいボケがある本筋とは無関係なさりげないくだりで、急にリアルな「子供を馬鹿にするときのあるあるネタ」をさらっと入れられることで、こっちの予期してないところをやってくるわけです。

 

あと、なんかつい昨日見つけたリンクが爆消えしてんだけど、金属バットが2018年のM-1準々決勝でやったときの漫才師のネタもそういうくだりがありました。

友保「ま、ワーキャー系中のは悲鳴の方でっけどな」

小林「…青空テレアポてなんや」

のところとかですね。急に小林ではなく客に話しかけ始めた友保に対し、小林が舞台上の世界に呼び戻すように友保の痛いところをいじります。

 

 

 

以上のように、メタネタとか本筋に関係ない本筋より面白いボケとか、サイズやタイプの違うボケが隣り合ってるって意味がわかったかと思います。

そしてこれは金属バットそして笑い飯の漫才の最大の武器です。これらの構成は舞台上の二人の芸人をただ台本に沿って話しているだけの演技上のキャラクターでなく、客が生きている現実世界に住む人間なんだと実感させるのです(また別に書くけどAマッソとかはそれをやってない(コント的な演技のせいも大きい))。

てか根本的にWボケって形式自体がもたらしてる最大の恩恵がこれなんだよ。新しいからすごいんじゃないんだよ。新しくてもつまんなかったら意味ないんだよ。Wボケって形式そのものが、二人が役割交代するときに「そうだ、この二人って俺らと同じ人間だったわ」みたいに感じられんのよ。だからそのたびに次のボケがまるで日常の人間がボケてるみたいな感じになんのよ。(なのにコントがリセットされるから、結果的に果てしなく飛んだボケに発展させることができる。そしてこれは男の子がところかまわず無邪気に「ふざける」姿そのものだ。だから笑い飯はロマンすらあるし、たまらなくいとおしい。)

 

そしてまた、小さいボケと大きいボケのギャップから、大きいボケがより大きく感じられるわけです。BLEACHが大ゴマ使いすぎちゃったせいで終盤一ページ丸々一コマに使っても中ゴマくらいの感覚だったのと同じです。手塚治虫や藤子Fは基本のコマが小さいため、中くらいのコマを使うとわりと大きく感じたりします。谷があるから山があるわけです。

 

 

てかこのへんもっとちゃんと書いときたいんだけど、ここが一番大事で一番めんどいんだよな。こいつら息するようにこういうボケバカバカいれてくるから山ほど例あるしよ。

笑い飯からやったの失敗したわ。一ページにまとまるわけない。もういいわ。次のやつからやったろ。暇ん時ちゃんとやる。



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