金属バットメモ

お漫才師「金属バット」についてのメモ

金属バット「円周率」まとめ

M-1グランプリ2017準々決勝(GyaO!)

4分ver.。この年の3回戦の円周率3分尺ver.も存在しているはずなのだが、一度もYouTubeとかで見かけたことがない。悔やまれる。コメント欄とかで伏線回収が最も話されているネタだと思われるが、いくらなんでも考えすぎや聞き間違いだと思われるものも存在。たとえば友保がパウンドケーキのことを「パイやないけあんなもん」と言ってるとするようなコメントがあるけど、パイじゃなくてパンでしょ。パウンドケーキ実際パンでしょ。丸くないってボケなんだからより四角いイメージのこと考えても角ばった食パンに近い形のイメージがあるパンでしょ。違ったらごめん。

というか読み直してみると他の伏線回収もどうなのかわからないところがある。回収に関するコメで簡単に確認できたのは

  • おさわり禁止
  • パウンドケーキ半分にきって+それパイやないか→2πr
  • 家に2いっぱいある→2πr
  • 胸にπ2つある→2πr

2πrにかけてるかもしれないってのあってもおかしくないと思う。序盤で小林が友保に円周率の定義を確認するところがあるので。なのでこれが伏線かもってのはあり得る話だと思う。よく見たなあ。でもパウンドケーキはパンでしょ。それに、円周率の定義確認もパウンドケーキ(小林の中では「まる」のもの)を直径を割り出すために中心を通る直線に沿って切断する(半分に切る)シーンのための必要な説明の気がする。小林が体を使って説明するシーンもその定義に合ってるしな。ところでパウンドケーキみたいな長方形のもんどう切ったら直径(と小林が解釈した切断面の幅長)の2倍になるんだ。パウンドケーキのアス比が無限に発散したら2に近づきますね。まあたぶんこれは「定規で曲線測ったからめちゃめちゃ誤差でた」っていうことなんだと思うけど。

 

19/02/15 ネタパレ(フジテレビ)

一昨日oaされた2分尺ver.。フリが足りない。これはキツかったですね。特に導入のそろばんが抜かされて最初から体になってるのはきつい気がする。むちゃくちゃ笑い足されてそう。小林筆算のとこで噴きかけてるのかな? あんまいらないような。

圧縮されてなお残ったということで、「教育を疑え」「概念つぶしてけ」パートに引きがあることを本人らも当然ですがわかっているようですね。各所で言っている「売れる気ある」という発言は嘘ではないなと感じさせられます。敗者復活以降の新しいファンの一定数が友保のパンクな姿勢から入っている様子から、こういう過激な言葉をポーズでも放つ様子にキャッキャする層は割といると思われるので、とりあえずまず売れるにはいい戦略だと思います。今年のM-1の準決勝前だって「金属バットは上沼恵美子の前でマナカナやって怒られてほしい」みたいな痛いツイートやコメント少なからずありましたもんね。

追加されたのは「筆算」や「こんなんできへんやん年寄り」のとこ。なぜか親切にもバリアフリーな証明を追求する姿勢は笑えますね。面白かった。

でもやっぱりもっと尺がほしい。

金属バット「便器」ネタ動画

2019/01/28 Skyrocket Company (TOKYO FM)

 

友保の「俺の金ちゃうか」のとこウケてない。アドリブなのかわからないけど急なくだりすぎたのか?

すげえネタだなあ。金属見始めたときのつかみどころのない感じがそのまま思いだされる。間とかワードからして面白いのは間違いないし、本筋が自然に、しかもものすごくきれいにあるので絶対に力がある… でもずっと生煮えみたいな感じで終わる。これが金属の初見だった人はなにが起こったのかわかんないんじゃないのか。

海賊といいこれといいオチすごいな。この「車みたいにするわ」「なんじゃそりゃ」を落語みたいにダジャレオチにしてめちゃくちゃふざけると「ホットケーキ」「オラ! あざした」になる感じだろうか?

金属のオチの見つけ方はすごいな。ラジコンとかお見合いとかのオチだって演出方法おかしいだけで脚本としては普通の落語だし、あれは金属なりのポップでわかりやすいオチなんだろうな。海賊とかのオチが一番わけわからん。

 

見づらいし、次からはオンエア順にすぐまとめようかな。

金属バット「早口言葉」ネタ動画

 

いい雰囲気だなあー 入り方もいいし

 

からっぽのときとかも思ったけど拍手とか促すのうまいなあ 上手くなったのかな

笑点回収か… 言われて見直したわ

円周率とかもそういう話出てたけど、さすがに考えすぎてるやつもあったな

でもすごいわ 小林だろうか? こういう気付かなくてもよさそうなかんじのうまい回収は?

小林の断りジョークみたいなノリあるけどそんなウケてねえな 友保に助けられてないか おもしろいけど意味のないケガしないようにしてほしい

金属バット「海賊」ネタ動画まとめ

サンデーライブ ゴエでSHOW!(MBSラジオ) 2019年1月13日放送

 

1:46から。

ラジオもあんまり聞いてなくてよくわかってないが、これは新ネタ? 動画に「ラジオバンダリー民には納得の一本目」みたいなコメントあり。

もし本当に新ネタなら、今年のM-1にかけられるタイプのネタに思えます。(てかどっちにしろ未だにこのネタM-1でやってないんだから本当に新ネタかどうかはどうでもいいか。)もち時間調整とかブラッシュアップとかありで。今はまだオチが強すぎてアンバランスととらえられかねないかな? それくらい、やっぱ何よりも最後の「大阪帰ってきてから全然面白くない」に度肝を抜かれました。ふつうにすごく面白い海賊パートをかき消しかねないくらい。

このボケを考えたのはどっちなんでしょうか? 友保かな? 小林たまにほんとに面白くない話ふつうにしそうだしな。

これはまた新たなお笑い界の発明をしたのでは? それとももう既にあったのかな? 余りに自然に文脈に馴染んでいて(くだりとしてちょうどよく脈絡がない)ので、これはオリジナルでは? 現実に会話中にあったことなんだろう。

もし本当に賞レースにかけるなら、最後のくだりがどうしてもじわじわしたフリが必要だから時間がかかるのが悩みごとになるのだろうか? このパートの面白くない話をきちんと「面白くない人が面白くない話を面白いと思い込んで話す様子」でしゃべる小林(でもこれちょっとだけ素でやりそう)、そしてだんだんとそれへの相槌が「(この話面白くねえな)」という疑いのトーンを含み始める友保、どちらの演技もガッチリ。これはいいです。もはや千鳥。

 

ネタパレ出演おめでとう

友保上の動画の中で「M-1優勝したい」って言ったな

本当に信じちゃうからな

僕ももうそろそろ本当に好きなものがそのまま世の中に繁栄するような人間じゃなくなってきたけど、本当に信じちゃうからな

笑い飯が作れなかった世界を、作ってくれるんだよな

 

本当に言ったよな 信じるからな

頼んだぞ


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金属バットのM-1以降の出演リスト

暫定、草稿、一部不確かの三拍子揃った優秀なリスト。

Wikipediaはおそらく敗者復活以降からアクセス数が増えたのでちゃんとした形式に整理されたのかな? なんかまだまだ変動してるみたいだけど。出演の項がなくなってしまった。

有名人やほか芸人のインスタに登場とかはどうせなくならないので無視。

 

金属バット(特に友保)は天才か

(今度はちゃんと人に読んでもらっても大丈夫な文になるように書いたつもりだったのに、また途中からよけいにぐちゃぐちゃしてまた普通のメモみたいになっちゃった。いつか推敲してすっきりさせてまとめる。)

(以下本文)

 

言葉というのは何かを切り取ってカテゴライズするための記号にすぎず、天才という言葉をそこそこの頻度で使用する人は「すげえおもしれえ」くらいの意味で使っているのをわかった上で 以下。

これからは僕も、好きな人たちを本当に真剣に好きだから、彼らへの言葉を軽く使わないようにするために。自戒とおせっかいで書いてます。

 

ジョークで「天才」というには、金属バットは本当に怪しいところにいます。特に友保は。金属バットは本当にすごいコンビです。そして、本当に最も重く言葉を使ったときの「天才」でもありません。だから、彼らを少し誉めるくらいのつもりで天才と言ってしまうと、ちょっと洒落にならずに本気の言葉ととられてしまうことがあるのです。

(A「東大寺の大仏マジでけえ。神」B「いや、仏って神とは別なんだよ」的な。こういうBみたいなやつ嫌でしょう。BはAのスラングとしての「神」の使い方のノリをわかってないし、Aのことを神仏の見分けがついてないかもしれないやつだと思っている。要するにBは人をなめてるカス。この投稿はそんなBみたいなことをずっと書いてます。)

 

今回は特に友保について。僕は金属バットの二人だと小林の方がよく知らないけどジョンレノンみたいな感じがして(金属バットのハードを担ってるのは小林なんじゃないかと感覚的になぜか思うことがある、役割の大きさは本家よりショボいけど)好きですが(あと無防備過ぎてほっとけないね。そして何よりあの友保の隣にいながら物怖じせずにボケる姿に心動かされる。勇敢なのか、あるいはちょっと感覚が鈍いんだと思います。がんば小林、あとは基礎から)、やっぱり最初に金属バットを見慣れてきた時期に先に目に入るのは友保だと思います。

 

で、確かに友保はやっぱり努力でどうにもならないものを持っています。そして彼の持っているそれを別に各人何と呼んでもいいんです。天才でも神でもよきでもクセでもツボでも。ただ、僕は人の素質をまじめに称えるときに、「天才」よりも重く、誰にでも通じる言葉を知りません。だからこれは、本気で真剣に言う「天才」という言葉が最上級のつもりで僕もみんなも言ってると思うので、「僕もみんなと一緒で、あくまで軽いジョークおして『友保は天才』って言ってんだよ」、「本気で友保がこの世の芸人の最上位ランクだとは思ってないよ」というアピールです。(友保を天才と形容するときは「金属バット友保とかいう天才wwww」みたいなスレタイくらいのつもりで言ってますよってことです。本当にすごいと思って言ってはいるけど、天才って言葉に真に釣り合うものではないってのは知ってるよっていう。)

(それでも、やっぱり天才という言葉は軽はずみで使うと冗談だったとしてもあとで後悔してる。いままでの他の投稿で西田とか真栄田、そして友保に既に天才(or 天才的)という言葉を使ったけど、彼らは全員ものすごいとわかったうえで、それでも後悔した。思ってもないことを自分に嘘ついてまでわかりやすくしようとして言っちゃだめだね。)

 

メモにしてももっと簡潔に書けよ。言い訳長すぎるだろ。

 

なので、ラベルの名前は個人の頭の中ではおのおのの自由とわかった上で、僕は友保は「才能がある」と形容されるべき芸人だと思います。「金属バット友保には才能がある」←こういう書き方で。すごく重い意味でこの言葉を使っています。たとえば霜降り明星せいやはMVSを取るようなトークもできれば、言葉で普通にボケることもできますが、また本当に彼の底から滲む必死さのある最高の真似できないキャラクターも持っています。だけど、そのキャラクターをせいやが持ってるからといって「才能がある」と形容されるグループには入りません。彼がコントロールしてそのキャラクターを創作に入れ込むことができないからです(後述しますが必要以上の必死さ自体が面白いからです。才能がある人は思うがままに暴れてるんじゃないかと思います)。無邪気に、天衣無縫に「これ面白いだろ」と提案するものに自然な一貫性があり、そして確かに面白く、なおかつそうでない人が努力しても追い付けないものを持っている。そういう特徴を持つ人たちを形容しています。その人が目指す芸風が、その人自身の存在やキャラクターが一致している。

(あくまで僕がそういう言葉で思ってるってだけなので全部カギカッコつけますけど、)「器用な人」や「センスがいい人」、「本物(天然)」とかが、たまに友保とかと明らかに違うグループの人が「才能がある」的な表現をされるときに所属していがちなグループかなと思います。せいやは本物(天然)と言われるべきではいか。西川きよしとかと同じグループかな? Aマッソ村上とか。

 

ということで、その大事な「才能がある」というグループはどういうクラスなのかということです。

一応言葉では、無為自然、みたいなことを先述しましたが、具体的に他にこれに所属すると思われるクラスの芸人をあげます。(あんまたくさん芸人知らないけど知ってる範囲で)

とか。あと、全力がテレビに収まりきんなかったりして(くっきーみたいにねじ込むこともなく)今は大人しくしてたりするけどたぶん本来の素質がこのグループに属する人たちだと思われる人として

  • ケンドーコバヤシ
  • 板尾創路(これは天然の方が近いか?でも彼のボケと彼の生むハプニングの面白さは一貫したものがある気がする)
  • ランジャタイ伊藤

それと、動きメインとかで本当はよくわかんないけど(僕がもう少しうまく整理できるようになったら実は↓の彼らは違うグループになるのかもしれない)、今のところこのクラスに入れて見劣りしない人たちとして

とか?

(追記:四千頭身後藤やニッポンの社長辻とかも上記の彼らの内かも、そしてとんねるず木梨はケンコバのクラスかも 再追記:モンスターエンジン西森とかもちょうど板倉と同じ場所かな)

好きに呼ばれるはずですが、彼らはみんな天才のすぐ次のクラスのものを持っていると思います。彼らを天才っていうとあとあと後悔はしますけど、もうはっきりいって最上級って言われてても特に文句ないと思います。この上の真の天才なんて一人(僕が無知でまだ未定だけどひょっとすると二人)ですから。メディアではしばしばこれらのクラスの人はもう天才と称されているはずです。僕も自分のルール破ってさえも自分で流れで言っちゃったことあるけど、やっぱすごいよこの人ら。そりゃ言いたくなるよ。このクラスのうちのかなりの人が、彼らのファンの少なくとも誰かは「生まれてきてくれてありがとう」って思われたことがあるんじゃないですか?

だけど、お笑いとか以外でも「天才」「才能がある」って言葉が真摯に使われるとき、この使い方が重用されているような気がするのです。だから彼らのことを真剣に、厳密に尊敬したいときほど、「天才」という言葉を慎重に避けてしまいます。

 

それとあと大事なことですが、小さな木より高く育つ草があるように、上の例にあげたこれらのクラスの人の笑いが、ここまでの大きな才能の種を持たずとも間違いのないセンスを持っていて、その上で努力を重ねた人の笑いに負けるなんてことは往々にあります。安定感とかは多分大概後者の方があります。たとえばかまいたちとかそうなんじゃないでしょうか。

 

上にあげた、「才能がある」と形容したい人たちには共通して、根底に無邪気さが感じられるような気がします。でも別にこれが定義ではないと思います。定義はまだ自分のなかでもはっきり整理つきませんので、いつかまとめられたらなと思います。

 

(以上本文)

 

要するに、友保は本物の天才よりすごくはないけど、それにしてもそのすぐ次くらいにむちゃくちゃすげえんじゃねえかっていうことです。

 

あとAマッソ加納とかジャルジャル後藤、笑い飯哲夫とかはどこに属するのかとか考えたい。彼らを西田とか粗品と同じグループに分けるのはなんか変な感じがする。

笑い飯哲夫とジャルジャルに共通するもの、そしてAマッソ加納と金属バット、天才松本人志

(ガチのメモ。

書き終えた今、この文メモにしてもいくらなんでも不親切すぎる。二項対立をわかりやすくしておきます。下の本文は根本的に以下の二つの対立の話をずっとしています。

  • 「ハード」=ネタの設定=大喜利の問題を考える能力=企画=フィールドを一から作り出す能力=原案=客観=(バンドとかでいう)音作り=メロディー?=ないない=突飛さ=プロット=なにかを伝えるときの言葉=感心させる
  • 「ソフト」=ネタ中の具体的なボケ=大喜利の答えを考える能力=演者=与えられたフィールドで暴れる能力=演出=感情=(バンドとかでいう)曲づくり=コード進行?=あるある=リアリティー=文体=なにかを伝えるときの表情=共感させる

最後の方何個か本文にも登場してねえな 特にメロディー&コード進行は余計わかりにくくしてそう。そんなに音楽詳しくないけどあってる? よね? メロディーと比較して直接的に感情呼び起こすのってコード進行でしょ? いやメロディーもあるとは思うけど。わかりにくいね。音作り⇔曲作りの方がまだ全然近い対比なんでそっちを想像してください。

でもなるべくたくさんの具体例の対から、共通する役割を感じ取ってください。)

(追 どっか整合性合わん気がする)

 

 

(以下本文。)

 

笑い飯はネタ作りを両者が担当していると言われているが、最初のネタの設定は実質的にほとんど哲夫が考えている。

笑い飯はネタ中のボケ方が普遍的かつめちゃくちゃ面白いが、設定はかなり飛ばしている。(ボケ方はその中にも金属バット友保の直系祖先と言える西田の視覚的なドンピシャの大喜利能力が一貫してあったりするため、敷居は低く笑いやすい(後述。))

これは哲夫がネタのフォーマット(「ソフト(ウェア)」の対義語としての「ハード(ウェア)」的な?)を考える能力に長けているからであり、これはジャルジャルにも共通する。

プロもこの感覚は持っているようで、スピードワゴン小沢はAbema TVの月曜The NIGHTにて2018年M-1最終決戦の3組をあげて「ジャルジャルはゲーム、和牛は映画とか小説、霜降り明星は漫画」と表現し、また中川家剛は同様にその三組のことを自身のラジオ内で「ジャルジャルYouTubeを観てる感覚、和牛はお芝居観てる感じ、唯一霜降り明星は漫才って感じ」と形容した。(この場合の剛の発言は、ジャルジャルはデカい企画(=「ハード」)ありきのスタイル、和牛はひとつのストーリーを大きく使ってデカい爆発(ex:2017M-1ウェディングプランナー「お父さんお母さん」、2018M-1ゾンビ「俺ここまでなってて抜かされることあんの」)を作り出すスタイル、霜降り明星は自分の思い付いた自信あるボケをその節々の脈絡にあてはめて披露するスタイル(霜降り明星が現在両者でネタを考えていても、未だに「粗品のピンのフリップネタ」(脈絡がなく、かつひとつひとつのボケのクオリティがとても高い。また、この粗品のネタの根源にある発想の柔軟さがスピードワゴン小沢に「漫画」と形容させる要素になっている)の応用と形容されるひとつの要因)だという意味だと思われる)

ジャルジャルM-1アナザーストーリーでも扱われていたように中川家礼二からの評点に長年苦しんだ。これに対して「礼二は古典的な漫才の型に固執している」と見る向きもあったようだが、具体的には礼二は漫才の端々に出てくるソフト的な(根元的には演じる人間のキャラクターと不可分な)魅力を重視しているからだと思われる。(つまりは大きくくくると礼二の採点の重きは「古典的な漫才の魅力」(=人間同士の掛け合いから感じられる距離感や思考の表現、つまり上手さと形容される技術そのもの)が一部には含まれてはいるんだけど、そんな雑な表現だと誤謬が含まれ過ぎる)礼二は「クラシックな型(「ハード」)にあってるから○、見たことない型だから×」なんて単純な採点してんじゃなくて、「型はなんでもいいけど中身のボケとかやりとり(「ソフト」)をちゃんと充実させてくれよ」、という基準を持ってんじゃないかということだ。

しかし、2015年M-1最終決戦で唯一ジャルジャルに投票した笑い飯哲夫、そして2017年M-1で唯一ピンポンパンゲームを最高評価した松本人志の両名は、ハードを単体で評価する基準を持っている。もちろんそれは強靭なハードを持ったネタを彼ら自身が開発した人物だからに他ならない。ジャルジャル笑い飯、そしてダウンタウン。彼らのネタの設定レベルでの発想力はみな特筆すべきものだ。(そしてこういう芸人がミュージシャンズミュージシャン的に「芸人から評価の高い芸人」だったりするんだと思う。)しかし、哲夫にはソフト的な発想において希代の才能を持った西田という相方がいたし、松本人志はたったひとりでハードにもソフトにも自由自在に対応できる完全無欠の本物の天才だったために、礼二的なソフト重視の視点を持つ人々にも低評価を受けることはなかった。

しかし、ジャルジャルにはソフトを充実させる人間がいなかった。ジャルジャルが時に「しつこい」と形容されるのはソフト重視の人にとって、たった一つハードをずっと見せられても、展開の妙に欠けると感じるからだろう。きっと、ジャルジャルは展開の妙など要らないと思っている。というかこれは恐らくだが、「そんなことは時間かければできる」と思っているのではないだろうか(それは彼らが「俺らにかかればソフト作りなんて余裕!」って思ってるって意味じゃないよ。むしろやっぱ得意じゃないだろうし、それは本人らも承知していると思う。でも、ハード作りに比べたらあとは仕上げるだけ、あるいは煮詰めるだけ、と思っていると思う。ネタの根本的な方向性はハードで決まるはずだ、って思ってると思う。あるいはハードに余計な不純物を与えないように、強く見えすぎないソフトを選んでいるのかもしれない)。彼らが「ネタのタネ」と称してYouTubeにありえないペースで投稿しているコント動画を見てもそう感じる。彼らのネタの魅力は「タネ」の時点で既に花開いている。それはそれは慧眼の人たちにとってはもう満開に咲きまくっている。だけどそのタネの面白さはソフト的な魅力ばかりが気になる人には届きにくく、ジャルジャルは勝負どころではそんな人らにもネタがわかりやすいように、ネタ中の(あくまで彼らの思うようにだけど)ソフト的な魅力を増幅させようと努力していく。だけど、ジャルジャルのネタが「ネタのタネ(ハードのみ)」から「ネタ(ハードにソフトを入れたもの)」に進化するときに、魅力が倍以上に増幅するなんてことはないように思う。それはジャルジャルのハードづくりの能力が、彼ら自身のソフトづくりの能力を遥かに凌駕して高いからだ。(ソフトづくりの能力だって卑下されるほど低くはない。平場の後藤に見られるように。平場はきっと芸人同士のソフト的な能力のぶつかり合いなんだと思う。)超高性能ハードにまあまあくらいの高性能ソフトを入れたところで、その完成品の魅力の大部分はハード単体の時点で完成しているということだ。

剛の先述の言葉を今一度。ジャルジャルを評した「YouTubeみたい」という言葉は、「企画そのものが面白い」という風な意味合いだと思う。それを礼二は「演者が見えてこない。企画だけの漫才は演者の自然なキャラクターがにじみ出る漫才には敵わない」ととらえているのだと思う。それは一つの基準として全くもって筋が通っている。映画や演劇の人たちが自分達の創作の世界にどうにかして重み(リアリティー、見ている人が現実らしく感じる感覚)を持たせようとして四苦八苦してやっきになっているのと全く同じように、先述通りクラシックな漫才の根本的な魅力だった舞台上の人間からにじみ出るリアリティーのあるキャラクターそのものというのは、とても普遍的で重要な技術なのだ。(だからリアリティーは映画でも舞台でも漫画でもアニメでもなんでも大事にされる。リアリティーを蔑ろにしたら「でもこれ作り話なんでしょ」と一掃されてしまうかもしれないのだ。リアリティーは説得力とか緊張感とか感情移入とか共感とかいろんな言い方をされて、常にあらゆる創作の世界で最も大事な要素の一つとして必要とされている)礼二は最悪きつい極論では「ジャルジャルはネタさえつくったらあと他人でも演じられるだろ」みたいに思ってるかもしれない。そしてそのような評が具体的にケンコバからは「無機質」、ブラマヨからは「人間味を一切感じない」、サンドウィッチマン冨澤からは「マシーンみたい」などの表現で指摘されている。(一方でこれは恐らくジャルジャルが美学のように持っているであろう「ハードの完成度をピュアに見てもらうために、不純なものを入れたくない」という指針に一致すると思う。彼らのネタはそれほどあまりに無機質に普遍的で美しくできている。)

そしてまたスピードワゴン小沢のジャルジャル評をまた今一度。「ジャルジャルはゲーム」という言葉が意味するのは、ジャルジャルのネタは発想力(=ゲームタイトル自体の出来)にその魅力の大部分がつまっており、その設定の世界の中でどんな具体的なボケやツッコミをするか(=ゲームのプレイスタイル)はもはや開発者のジャルジャルも本来消費者にすぎない視聴者と同じように、一人のプレイヤーとして楽しめる分にはあんまり違いがない、ということだと思う。ピンポンパンゲームなんてまさにゲームの形をとって、視聴者とジャルジャルが全く同じように楽しめるネタだったわけだ。2015年の雷坊主の添い寝節とか呼ばれてるあのネタだって、視聴者が具体的に会話の節々でふざけるアイデアを考えれば、今すぐあのネタのフォーマットを借りて似た形のネタを作ることが出来る。これは実はすごいことだ。だけど、ソフトの妙を見たい人にはやっぱり伝わらなかったりする。(2015のネタの妙は放っておかれたボケをツッコむタイミングがほとんど幾何的な美しさをもって意図的にバラかされていたことで、それが(普通の作り方ではないけれど)ネタにスケールを出していた。これで「展開がある」という感想を少し持たれやすかったのかもしれない。でも本当はこれだけがネタのハードだ。この漫才での一つ一つのボケは放置されてから回収されるまで放置される距離感にしか真の意味はなく、ボケを埋めている言葉など単にその場で代入された変数にすぎない。それを際立たせるため、彼らは意図的に同レベルのボケを並列的に用意する。ボケのレベルの揃えかたといったらなく、そこからは「具体的なボケが変に目立ったりしてネタの型を邪魔されたくない」くらいの意思さえ感じる。きっと彼らはネタの型の邪魔になるなら、「ジャルジャルにしかできないボケ」みたいなもの(これはほとんどの漫才師、特にソフト重視の漫才師が血眼になって探し続けているものだ)が見つかったとしても、型を優先して捨てるのではないだろうか。それ以前に彼らにしかできないボケなどあるようには見えないほどの無機質さを彼らは持っているが。彼らの漫才はその美しさとあまりの普遍性から、金属製の芸術品のような印象をウケる。普遍性だけを押し出したギリギリ芸術じゃないかもしれない「雷坊主の添い寝節」、あの漫才はペルシャ絨毯とかフラクタルとかと同じ価値の美しさを持っているということだ。ネタの構成の魅力が言語を介さない構成そのもの配置の美しさにまで昇華されているのだ。ゴレンジャイの根底の発想と一緒だ。)そしてそんなソフト重視の人はプロの世界よりも、むしろお笑いをそこまで真剣に見ないいわゆる普通の視聴者に多いかもしれない。そして「お笑い」を名乗る限り、ゴールは綺麗なものを作ることではなく笑わせることなので、たとえジャルジャルのように半分芸術に足を突っ込んでいるようなネタを作ろうと、客にウケなければその場では少なくとも低評価を下されることに文句は言えない。たとえ本当に客が悪くても、芸人はウケないことを客のせいにしてはいけないのだ。これは他のあらゆるメディアと違って、お笑いだけが視聴者に呼び起こす感情を「笑い」というたった一つの感情に絞っているメディアだからだ。笑いの他に感動が残ったりするのは大丈夫だが、たとえば「お笑いやりまーす」と言って客に笑いなく感動だけが残ったりしてはいけないのだ。たとえそれが見る客が悪いことが原因だったとしても。だから、ほとんど大勢の人に笑いの入り口となっているソフト的なネタの部分を重視する礼二の採点は、あくまでアーティストやデザイナーなどではない、芸人としての視点に徹したネタの評価としては筋が通っているのだ。(だからひょっとするとジャルジャルはこのまま日の目を見ないかも知れなかったところを、彼ら自身が若年層に直結するメディア、まさに偶然剛が表したようにYouTubeにネタのタネを投稿し始めたことで、お笑いを「創作」として捉えてなお真剣に見れる層に露出できるようになったのは大きな恩恵があると思う。彼らの才能が正しく評価されますように。)

 

で、そんなジャルジャルのネタを評価している松本人志と哲夫だったが、(まあ結局これが言いたいんだけど)彼らはAマッソのことをきっと評価してくれると思う。

というか哲夫はすでに笑けずりでAマッソを高く評価した。金属バットが似てると言われる芸人のAマッソ編で書いた、Aマッソ加納が笑い飯から学んだ「設定の発想を飛ばす」というポリシーが、笑い飯の中でもまさに哲夫的な部分から来ているということだと思う。

だからその記事で「Aマッソと金属バットは似ているところがあり、かつどちらも笑い飯の傘下にあるが、それら二つの事象は独立であり、両者が笑い飯に似ているから互いに似通っているわけではない」と書いたのは、具体的には「Aマッソ加納は笑い飯哲夫的なネタの設定を書く。金属バット友保は笑い飯西田的なボケをする。ところでAマッソ加納の考える殺伐とした語彙と金属バットの考えるアングラな語彙には似通った雰囲気がある」になると思う。ひょっとしたら金属バットから加納が影響受けてんのかもしんないけど。

 

(以上本文)

 

 

上の文から勘違いしてほしくないのは、「ハードが得意な芸人はソフトが不得手であり、ソフトが得意な芸人はハードが不得手」みたいななわけではないということです。片方が突出して得意だと、もう片方がそこまで不得手でなくとも相対的にかすんで見えたりします。なので、以下にこの記事に登場した芸人の得手・不得手とかをまとめます。同一人物でも必要があれば個人とコンビを使い分けています。まあまあ微妙なとこもあります。(スピードワゴン、和牛、ケンコバブラマヨあたり)

 

 

加納とかはハードの中にハードを入れ込んだみたいなネタを書くよね。ジャルジャルは一つのハード一本で見せるからそっちの方が職人気質に見えるかなと思う。加納はネタの飛んだ発想にさらに飛んだ発想をくっつけるため、ともするととっちらかった印象になり、文脈に慣れない人や想像力のついていかない人からは評価されないことがある。

また、「演技が下手」ってくくられる人はコントと比べると漫才ではまだ演技がうまいとされることもあると思う。「素が出てること、本気でネタを言ったり考えたりしているように見えること」が漫才が上手いことなんだと思う。金属バット小林とかはコントではおちゃらけてるように見えるかもしれないけど、漫才なら「わざわざおちゃらけてる人」にも見える。漫才にはコントと違ってハナっから創作という建前がないため。

 

追記:思い出した。すごい大事なことがあったんだった。

そんな感じで礼二筆頭に一定の割合から「作り話や想像の域を出ない」みたいなものを根っことした低評価を受けていたジャルジャルだが、後藤が「国名分けっこの出題やツッコミのタイミングは決まっておらず、客の様子を見て決めている」と発言している。これはすごいことだと思う。同様に去年のM-1でもピンポンパンゲームは本当にその場で実行されていたゲームであると明かされている。(それどころか、「ネタのタネ」ですら、設定以外のほとんどはアドリブだという。)

これはジャルジャルの二人の演技のわざとらしさから来るネタの嘘っぽさのせいでわからなくなっていたが、二人の披露したネタの核心がドキュメンタリーだったことを意味する。演出家たちが苦心して求め続けたリアリティーを始めからジャルジャルのネタは持っていたのだ。だけど彼らの演技に邪魔されてそれは伝わらなかった。本人らが口を開かなければ、誰一人それをわかった人はいなかったままなのではないだろうか。(お笑いを見慣れていない人の中には二人のコント的な演技のせいでジャルジャルが形式的にはしゃべくり漫才であることにすら気づかない人もいるのではないか。)切ない話だ。ジャルジャルは彼らの型を崩さないまま、礼二をはじめとする人々に理解されようと努力していた。だけど彼らは本当は最初から、その不足しているとされているもののタネを持っていたのだ。

金属バットが似てると言われる芸人、Aマッソ編

偉大な親の穴兄妹

金属バットとの交流もあるAマッソですが、ネタが似ていると言われることがあります。

この二組はかの大漫才師・笑い飯の流れを受けている二組ですね。

特にAマッソ加納は有名になるきっかけになった「笑けずり」内で、笑い飯への尊敬の念を隠していませんでしたね。

 

加納「ベタな設定をするなするな、っていうのが教科書やと思ってたんで」

カメラマン「それ誰から教わったんですか?」

加納「笑い飯さんです」

これに見られるように、加納が笑い飯に影響を受けている要素としてはネタの奇抜な設定があげられます。

Aマッソと細かい違いでは笑い飯はビジュアルの笑いが多いネタがありますが、Aマッソにはビジュアルの笑いはほとんどなく、言語的に突飛な発想が多くを占めます。これをむちゃむちゃざっくり言うと、「あるある」の要素が笑い飯は多い、Aマッソは少ない、と言いかえられます。Aマッソはネタをリアルに見せようという方針ではない、ということですね。彼女らがコントも得意としているのも納得です。

二人の演技がいかにも芝居がかっているのも、ネタを虚構として扱いやすくし、振り切ったボケをネタの世界に馴染みやすくしています。「型で会話の主導権とる」(五目ラーメン)なんていわゆるしゃべくり漫才のものじゃないくだりがネタ中に入り込めるのは、Aマッソの二人の大袈裟な演技があるからです。

ジャルジャル(特に福徳)もほとんど同じ呪いにかかっています。ネタの構成もそうですし、演技そのものも相まって「漫才というよりコント」みたいな感じになっています。ジャルジャルは自分達がコント師であることに自覚を持っていますが、ひょっとするとAマッソの漫才のネタの中にもコントにした方がより面白さを増すネタもあるのかもしれません。

 

文書くのだるっ

Aマッソと金属バットの共通点としてネタ中に非日常的でいかちー言葉が入ることがあげられるけど、これは笑い飯とは関係ないんすよ。笑い飯は別に語彙力は売りにしてないから。でそのいかつい言葉って言うのもAマッソは加納の読書家な面から来るひねり出された高偏差値な言葉で、金属バットは天然スラム街育ちみたいな育ちからくる殺伐とした低偏差値な言葉なんだよ。Aマッソは言葉自体が難しくて、金属バットは言葉自体は難しくないけど普通の語彙で面白い言い方をしたりするんだよ。な。

笑い飯から影響を受けたいかれた設定ってとこでも、加納は言語的な奇抜さで発想を飛ばすけど、金属はわりと本家と同じくビジュアル方面でボケるんだよ。まあ金属どっちもできんだけどな。小林が言語、友保がビジュアル、みたいな感じよ。でも全体のイメージは友保の方がボケがんがん出せるからビジュアル寄りな印象になるんすよ。だから金属もあるあるの要素多いって言えんね。よかったね!これで帰れるね!ね!

ここまででわかる通りビジュアルの笑いのクオリティは、その芸人が頭の中に持つあるあるの精度そのものに直結します。

 

というわけで、Aマッソも金属バットも笑い飯の傘下に分類できるものの、それぞれ遺伝した部分がAマッソは設定のコントとしての奇抜さ、金属バットはビジュアル的な笑いや根本がしゃべくりである漫才特有のメタ的なボケであり、遺伝部分が似ているわけではない。

二組が似ている部分である言語的なボケというのは、それぞれのコンビの読書家、加納と小林が偶然にも持ち合わせた共通のボケの形から来てるわけです。だから笑い飯の傘下であることと二組が似てることは関係ないです。たぶん。

Aマッソもダブルボケみたいな形式のネタは普通にある。

でもこれは笑い飯がこの形式を採用したときの最大の効果である、コント内のキャラ二人ではなく現実世界の漫才師二人であることを実感させるための効力はない。これは先述通りAマッソのコント外の演技が芝居がかっているからだ。

逆にこれは生粋の王道しゃべくり漫才だが、ワードセンスそのままにAマッソの魅力は最大限に発揮されている。二人の演技は他のネタと比べて自然なものになっている。もし人にAマッソのネタを初めてすすめるならこの動画がいいのではないだろうか。

Aマッソのことを良く知ったあとなら、村上はたぶんほんとうにアホなので実はネタ内の演技が平場でのおちゃらけとほとんど同じであることがわかって面白いかもしれないが、やはり初見では共感できる演技が肝要だ。Aマッソは福徳と同じ病を克服できるだろうか。それともそこはかえずに天下を狙うのだろうか。

 

あと、金属バットの言語的なボケっていうのは無人島の「叙述トリック」やプリクラの「永遠のエネルギー」とかね。これ先言っといたら良かったね。ダボが。

金属バットが似てると言われる芸人、笑い飯編

にてるって言われてる芸人てざっくり

こんなんでしょ

またあったら追加したろ

追記:あったわ

 

笑い飯

これが一番聞かれる気がする。金属バットと笑い飯を似てると感じさせる最大のポイントは、タイプやサイズの違うボケが平気で隣接するところでしょう。

たとえば、両者の漫才にはネタ中のキャラクターから片方だけが唐突に脱出して現実世界の人間になったり、バカバカしく荒い発想のボケのすぐ隣に新鮮で鋭いボケがさらっと配置されていたりします。

 

(追記:これ2本目じゃんまちがえたわ。でも見つからんしほっとこ。)

たとえば笑い飯M-1に初登場した2002年1回戦のこのネタの中で、ふたりが社会科見学の引率の先生に扮し、交互にメガホンを持ってしゃべるくだりがあります。(????)その冒頭で哲夫がメガホンを持ったジェスチャーをしますが、すぐには話し出さずに「ウーッ」などと奇声を発し、首をかしげます。すると西田がさりげなく「メガホンの押すボタンを間違えている」と指摘し、哲夫はなるほどと言った感じでメガホンを持ち直す仕草をし、本題に入ります。

このくだりの前に大きく振られているのは引率の先生からの注意の内容そのものであって、それを本編としたらメガホンを持つところは先生が喋っているという想像を具体的に想像させるための演出(??他にちゃんとした用語ありそう)です。ですが、実際にはその演出の段階に、その後に続く大ボケよりも鋭く新鮮なあるあるボケがさらりと放り込まれています。このとき、西田が落ち着いた感じでつっこむこと、つまりまるで引率の先生の隣にいる別の先生のような雰囲気でいることが大事です。それまでまるで親の仇のようにボケあっていた二人が、急にこのシーンでは息を合わせてリアルなコントに入るわけです。でもこれはあくまで本題に関係ないボケだ、ということで本題よりも面白いくだりにもかかわらずさらりとボケてツッコんで終わりなわけです。

 

また、笑い飯のウルトラ傑作2003年のネタの土を掘りあうパートでの西田の一ボケ目の冒頭「業者のおっさんとこ飛ばしたろ」も、役割が一瞬で入り交じる例です。西田はもう発掘のコントに入っているのにもかかわらず、先ほどの哲夫のコントの冒頭「掘らなしゃあないで」というセリフを、コント内の「業者のおっさん」としてではなく、現実に舞台に立つ「西田幸治」としてめんどくさくなってとばしたことを堂々と発言してしまうのです。

このとき西田は「飛ばしたろ」、つまり通常では哲夫の1ターン目を踏襲したフリを自分も行わなければならないということを自覚しています。コント中のキャラクターになり始めておきながら、自分達の漫才の構成をメタ的に理解してしまってるわけです。

 

金属バットが大阪チャンネルで披露した傑作「趣味(トランペットダーツ)」のネタです。これはネタ全体も笑い飯のものを踏襲しているのですが、様々な細かいところで「台本感」が消える工夫がしてあります。(そのことでこのネタについていつか一個の文章を書きたいと思っています。)

このネタの2:09ごろ、友保「うんこ!」小林「え?どしたん?行きたい?」友保「ちゃうちゃうちゃう(照)」の部分。これは笑い飯のメガホンのくだりとおなじく、このネタの大きな本筋に関係ないくだりです。このネタでは全体を通して一貫したストーリーは「おかしな趣味を言い合う」ことであり、それ以外は寄り道です。そしてそれは友保がフルート生け花というフレーズを言った時点で我々に本筋なのだと認識されます。

なので、このうんこは、ボケ・ツッコミの役割で構成された本筋のストーリーとは関係なく、友保が「屁の音だけで笑うやつはうんこってだけで笑うだろう」と考えたことで発生した、おちょくる・おちょくられるの役割で構成されるくだりなのです。それまでのわかりやすいボケがある本筋とは無関係なさりげないくだりで、急にリアルな「子供を馬鹿にするときのあるあるネタ」をさらっと入れられることで、こっちの予期してないところをやってくるわけです。

 

あと、なんかつい昨日見つけたリンクが爆消えしてんだけど、金属バットが2018年のM-1準々決勝でやったときの漫才師のネタもそういうくだりがありました。

友保「ま、ワーキャー系中のは悲鳴の方でっけどな」

小林「…青空テレアポてなんや」

のところとかですね。急に小林ではなく客に話しかけ始めた友保に対し、小林が舞台上の世界に呼び戻すように友保の痛いところをいじります。

 

 

 

以上のように、メタネタとか本筋に関係ない本筋より面白いボケとか、サイズやタイプの違うボケが隣り合ってるって意味がわかったかと思います。

そしてこれは金属バットそして笑い飯の漫才の最大の武器です。これらの構成は舞台上の二人の芸人をただ台本に沿って話しているだけの演技上のキャラクターでなく、客が生きている現実世界に住む人間なんだと実感させるのです(また別に書くけどAマッソとかはそれをやってない(コント的な演技のせいも大きい))。

てか根本的にWボケって形式自体がもたらしてる最大の恩恵がこれなんだよ。新しいからすごいんじゃないんだよ。新しくてもつまんなかったら意味ないんだよ。Wボケって形式そのものが、二人が役割交代するときに「そうだ、この二人って俺らと同じ人間だったわ」みたいに感じられんのよ。だからそのたびに次のボケがまるで日常の人間がボケてるみたいな感じになんのよ。(なのにコントがリセットされるから、結果的に果てしなく飛んだボケに発展させることができる。そしてこれは男の子がところかまわず無邪気に「ふざける」姿そのものだ。だから笑い飯はロマンすらあるし、たまらなくいとおしい。)

 

そしてまた、小さいボケと大きいボケのギャップから、大きいボケがより大きく感じられるわけです。BLEACHが大ゴマ使いすぎちゃったせいで終盤一ページ丸々一コマに使っても中ゴマくらいの感覚だったのと同じです。手塚治虫や藤子Fは基本のコマが小さいため、中くらいのコマを使うとわりと大きく感じたりします。谷があるから山があるわけです。

 

 

てかこのへんもっとちゃんと書いときたいんだけど、ここが一番大事で一番めんどいんだよな。こいつら息するようにこういうボケバカバカいれてくるから山ほど例あるしよ。

笑い飯からやったの失敗したわ。一ページにまとまるわけない。もういいわ。次のやつからやったろ。暇ん時ちゃんとやる。



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金属バット「ラジコン」ネタ動画まとめ

ブログの形式つかってんだからこうやってより分けたほうがいいのかもしれない

 

M-1グランプリ2015 3回戦(GyaO!、2015年10月28日収録)

 

マヨなか笑人(読売テレビ、2017年6月9日放送)

 

OWARAIブラックジャック(読売テレビ、2017年12月25日放送)

 

スピードワゴンの月曜The NIGHT(AbemaTV 、2018年2月19日)

 

爆笑!スライダー(TBS、2018年10月15日放送)

 

これとあと月曜The NIGHT #95の一本目。

こんな感じでネタごとにまとめてこうかな

 

 

金属バットに限らず何かを分析することについて

金属バットに限らないことですが、一流の創作物やパフォーマンスの一番すごいところは、あらゆる面白い要素がすべて明確に独立できずに、全体がまるでひとつの生命体のように渾然一体となって輝いていることです。


金属バットの漫才も一流のパフォーマンスや作品のひとつです。僕が金属バットにここまで刺激的な魅力を感じるのは、初めてネタを見たときから、そして今も全く変わらずに金属バットを面白いと感じているからです。細かく考えた結果、金属バットがどれくらい面白いのか決まるのではありません。


言語以外の情報を含むあらゆるものはすべて言語に還元して表現しきることはできません。あらゆるコミュニケーションは思考と感情の近似です。話し手の出力の段階で、聞き手の解釈の段階で、必ずもともとの思考や感情からズレが出ます。だから、金属バットの魅力だって当然100%こんな端書きには表現しきれません。このメモ全部あわせても金属バットのネタ動画一本の魅力に遠く及ばないし、そのネタ動画だって10本集めてもライブで見るご両人の魅力1分ぶんにも勝りません。

 

それでも、近似的な言葉で表そうとするだけで、少しでも金属バットの新しい面白さに気づきやすくする足跡が残せるんじゃないかと思っています。たぶんみんなそうなんだと思います。

金属バットのネタの順番メモ

ケッヘル番号的なのをつくりたいわけだ。

それでなんか、

  • 確認できる時系列順
  • M-1でかけたやつはまとまった番号
  • 似た形式のやつはまとまった番号

とかをくれてやりたい。引用するときめっちゃ楽。できればテイクごとに1-Aとか2-Bとかしたりして、「このネタのあのテイク」って表せるようにしたい。したいか? 普通に「ラジコン@Abema」って書いた方がわかりやすいし早くね? 絶対そうだわ。意味ねえ。でもなんかある程度の頭の整理になりそうだし、なんかしんないけどすごい番号つけたいからやろう。

 

うんこみたいな憶測でなんとな~~く金属バットの進化を時期で分けたので、それに則ってまずは時系列で大きく分けたい。

てか過渡期って中期って呼んだ方がよくね?

 

初期

  • 背中
  • 発音

 

だる。だりい。

平場の金属バットさんの動画

バニラ気分! マツケン・今ちゃん・オセロのGO!GO!サタ(フジテレビ、2009年5月2日)

出演は2:35~

これ全然平場じゃねえわネタやってんじゃん

Aマッソのゲラニチョビ (#27「キンゾク」、#28「TAXI」)

これも全然平場じゃねえな

メ~テレライブ BOMBER-E (メ~テレ、2018年5月15日)

平場は7:04~

前略、西東さん(中京テレビ、2016年10月29日)

平場は3:35~

ひるキュン!(TOKYO MX、2018年10月25日)

金属バットの小林・友保、ご両人のボケの特徴(マジで憶測)

金属バットのネタの第一印象として「正体不明感」みたいなものがありますが、その一因としてタイプの違う様々なボケが見境なしに(でも繊細に)詰め込まれていることが挙げられると思います。そしてそれこそが、金属バットが「M-1の擬人化」こと笑い飯に似た印象を与える原因でしょう。

そしてもちろん、両コンビがこのようなネタを作れたのは、どちらもコンビが二人ともボケられたからでしょう。

このメモでは、平場の雰囲気からなんとなく想像されるご両人のボケ方の特徴から、実際のネタの中のボケがどちらが作ったかをバカみたいに憶測します。僕がもっと平場見ればもうちょっとちゃんと推測できるかもしんない。

友保の才能ばかりが取りざたされるけど、やっぱりコバちゃんだって雑魚じゃないとわかってもらえるきっかけになるかも。

 

小林のボケの特徴

過激なライフハック

例)

  • 数学で考える競馬の必勝法(マナカナ)
  • 国金で金を借りて返さんでいい方法(マナカナ@Abema)
  • 市民税を払わんで済む方法(背中)

YouTubeの違法アップロードに群がるキャンホイたちからたまに聞かれる「時たま知性が見える」みたいな意見は、このタイプのボケから感じられることがあるでしょう。これはおそらく読書家の小林が考えている気がします。

初期ネタに見られ、ネタ冒頭に置かれることでつかみとして機能します。また、このボケの内容を友保が知りたがることがそこからの展開全体の大きなフリになります。

このボケが持つ殺伐とした印象は初期バットの持つ荒涼としたムードの形成に一役買っており、当時の金属に危険でアングラな香りを持たせています。

恐らくこのボケは二人が思春期を過ごしたゼロ年代のインターネットにあったアングラ感と、ゲームの裏技が盛んだった時代に育ったことで持つ「ギリありそうな抜け穴」のネイティブな感覚に由来すると思われます。

このボケはシンプルで味が濃いのに、実はネタ中に定型化して組み込んだのは金属が始めてじゃないかというボケのタイプであり、小林の最も偉大な功績の一つだと思っています(あくまで小林が考えていた場合の話ですが)。